目次に戻る 次へ進む

機慷楡厳院戮いまに伝える「『睡眠』ちょっといい話」


 『養生訓』という書物をご存じでしょうか。江戸時代の儒学者・貝原益軒(1630〜1714)が晩年、83歳のときにまとめた「健康な生活の暮し方についての指南書」です。300年ほど経ったいまも多くの訳書・解説書が出版され、健康本の原典として読み継がれ、まさに今日の健康ブームの原点がここにあるといっても過言ではありません。



 この『養生訓』には、養生のために、「4つの欲」を慎むことの重要性が語られています。4つの欲とは、「飲食の欲」「好色の欲」「眠りの欲」「言語をほしいままにする(ムダにしゃべりたがる)欲」です。
 「眠りの欲」を慎めば健康になれると説く『養生訓』。では、この書のなかで「睡眠」がどのように語られているのかを見ていきましょう。もちろん、300年経ったいまも、その正しさは変わらないという教訓もありますし、その後の睡眠研究によって「ちょっと違うかな?」と思うようなこともあるでしょう。そういったことを楽しんでもらうことも、「睡眠とは何か」を考えることにつながります。



(4)「内敵には勇、外敵には畏れ」は本当か?
 養生訓・巻第一・総論上「内敵には勇、外敵には畏れ」に、睡眠の欲は身体のうちから生まれて攻める内敵の1つとして記述されています。
「およそ人間の身体は弱くもろく、しかもむなしい。風前の灯のように消えやすい。思えば心細いことだ。つねづね慎んで身をたもつべきである。まして内外から身を攻める敵が多いのだから、まことに危険である。まず、飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲、あるいは怒、悲、憂という敵が攻めてくる。これらの敵はすべて身内から生じて身を攻める欲だから内敵である。なかでも飲食・好色は内欲から外敵を引きいれてくる、もっとも恐るべきものである。……(中略)……内敵に勝つには、心を強くして、忍耐することである。忍とは我慢することだ。飲食、好色などの欲望は、強くたえて気ままにしてはならない。強い精神力なくしては内欲に勝てないのである。」(『養生訓』貝原益軒著/伊藤友信訳、講談社学術文庫)



 内敵としての「睡眠の欲」に対して、養生訓は「勇」が大切だと述べています。勇とは、「忍耐、我慢する強い精神力」ということ。睡眠も欲望の1つであり、欲望という内敵に打ち勝つには、忍耐と我慢する強い精神力が欠かせないわけです。たしかに養生訓では「寝すぎは健康によくない。昼寝はもってのほかだ」といったことを述べています。このことには今日、異論もあるでしょうが、一定の範囲では「たしかにそうかもしれない」という首肯する人も多いでしょう。



 では、睡眠という欲と「忍耐、我慢する強い精神力」に関して、今日、どのような研究が行われているのでしょうか。たとえば、ピッツバーグ大学医学部で精神医学の教授を務め、臨床心理学者兼行動社会学者であるウェンディ・トロクセル氏は、色欲(性欲)という観点も少し踏まえつつ睡眠について興味深い研究を行っています。端的に述べると、「一緒に寝るパートナーの睡眠の問題は相手にどのような影響を与えるのか、パートナーとは一緒に寝たほうが精神は安定するのか」といったことです。



 ウェンディ・トロクセル氏は、前者について、「恋人の女性や奥さんの睡眠に問題があると、翌日に喧嘩をする可能性が高くなる。しかし、男性側が眠れていなくても、喧嘩や口論が増えることはない」と述べています。睡眠の精神に与える影響は、ひょっとすると女性のほうが大きいと考えることができるかもしれません。
 こうした研究を、もう少し細かく見てみましょう。1つが医学誌『心身医学』に掲載された2010年の研究です。



 ピッツバーグ大学のチームでは、29組の異性カップルを1週間追跡し、夜の睡眠の質と日中の2人の関係への満足度を調べたそうです。カップルには睡眠記録をつけてもらい、動作検知機器を手首に装着し、手のひらサイズのデジタル機器を使って1日最大6回の相手との交流について評価しました。
 結果は、次のような傾向が見られたといいます。
・男性は夜よく眠れると、関係の満足度が高くなる傾向にある
・女性は関係の満足度が高いと報告する人ほど、夜よく眠れる傾向にある
・女性は、夜、相手と別々の時間に床に就くと、関係の満足度が低くなる
 この傾向に関してウェンディ・トロクセル氏は、「女性は関係の変化により敏感なため、関係がうまくいっているかどうかと睡眠との間に相関が見られる。男性だと、睡眠が2人のコミュニケーションに影響をもたらし、それが関係の満足度に影響を与える」と述べています。「睡眠」と「パートナーとの満足度」の因と果の関係が男女で異なっているようです。



 では、カップルが同じ睡眠パターンに合わせるべきかどうか。カップルは同じ睡眠パターンを共有するケースが多いものですが、一方で、生まれつきの睡眠リズムを変えることは簡単ではなく、どうしても合わせられないこともあります。このような場合、別室に、別々に寝ることの重要性も増してきます。
 このことについてウェンディ・トロクセル氏は、「別室で寝ることがなぜ最善だと思うのかについて相手とよく話すべき。別々に寝ると決めた場合は、性生活についても話し合い、それをなくさないように計画することが重要だ。ベッドで寝ている時間より、ベッドで一緒に起きている時間のほうが重要である可能性がある」と述べています。
 いつセックスするのかを含め、いつベッドで一緒の時間を過ごすのかを考えるのは実は大切なことです。身体的な親密さはたとえセックスがなくても、 “愛と癒しのホルモン”とも呼ばれるオキシトシンの分泌を促します。オキシトシンはストレスを軽減し、その結果、互いの絆を強めるでしょう。



 また、ウェンディ・トロクセル氏は、アメリカの睡眠学会Associated Professional Sleep Societiesの会合で、睡眠の長さと夫婦生活における対話についての研究結果を報告しています。
 身体的・精神的障害の病歴がなく、ほとんどが30代の健康な夫婦35組について、10日間にわたって入眠までの時間と、全体での睡眠時間を調べ、夫婦の夜間の動きを見る挙動記録装置で記録しました。夫婦は毎日、配偶者から大切にされた、支えてもらったと感じた「好意的な結婚生活上でのやりとり」の数と、配偶者から批判された、無視されたなどの「否定的な結婚生活上のやりとり」の数も記録しました。
 その結果は次のような傾向がありました。
・妻の入眠までの時間が長いほど、翌日に妻も夫も夫婦関係の問題を訴える
・夫の睡眠は、翌日の結婚生活における対話には影響を与えていない
 先に示したように「恋人の女性や奥さんの睡眠に問題があると、翌日に喧嘩をする可能性が高くなる。しかし、男性側が眠れていなくても、喧嘩や口論が増えることはない」ということになります。



 江戸時代もいまも、睡眠は食欲、色欲(性欲)とともに人間の欲望の1つと捉えられています。たしかに「餓死して死ぬのが早いか、眠れなくて死ぬのが早いか」となると、一般的には「眠れなくて死ぬほうが早い」と考えられています。それだけに、本来、睡眠は大きな欲望の産物といえるでしょう。
 ところが、その欲望のもたらすよい影響も見逃してはなりません。養生訓の言うように「強い精神力なくしては内欲に勝てない」「内敵に勝つには心を強くして忍耐すること」も事実ですが、現代人はよりニュートラルな、ナチュラルな感覚で「内欲、内敵」と上手に付き合うコツを身につけつつあるといえるのかもしれません。



Copyright © 2006 Kaminsho-Land All Rights Reserved.